My Life Story 第3章

人生最大の後悔と自分を表現する場の完全なる喪失

後悔のはじまり

中学時代一緒に合宿をした高校の先生から内々で推薦の話があったと両親から聞いたことがありました。
嬉しくもあったのですが、他県にスポーツ推薦で行った先輩の中には伸び悩む人もいたそうで
母親が心配しました。私も3年間やり尽くした気がしたので、高校では帰宅部にしようと思い
地元の高校にしました。
しかし、入った地元の学校の軟式テニスの顧問の先生が私を待っているという話を聞いて
うっかり入ってしまったのが後悔の始まりでした。
 
やってみると楽しかったのですが、高校から始めた先輩もいたり、練習は基礎のみ。
行かなかった高校とはレベルの差があり過ぎて、やるほどに物足りなさを感じ
高校の選択を間違えたと思うようになりました。
転校できないか、などと自分なりにいろいろと可能性を考えましたが
インターネットなどなかった時代、情報も得られず、誰にも相談できませんでした。
先輩の中に顧問の先生の娘さんがいて、他の先輩と比べると明らかにひいきをしていると
感じること、練習方針などで納得できないこともあり、2年生の時に部長でありながら退部しました。
辞めたことを知った父と口を聞かなかった期間もありました。
(父は応援してくれていたので)
 

唯一の自己表現の手段

中学の時から自分の表現手段としての部活動だったのでその場を失い
見かけは普通でしたが、内面は生きていても仕方がないというような投げやりな気持ちでした。
高校の選択を間違えた、ずっとそのことばかりを後悔していました。
あの時、こうしていたら、ああしていれば・・・。
「たら」「れば」とずっと思い続けていた日々。
 

人生終わりの歌?

当時、石原裕次郎という昭和の大スターが亡くなった時期で彼の歌がよく放送されていました。
「粋な別れ」という歌を激リピートして聞いていた17歳。。。
今歌詞を見てみると、失恋の曲だと気づいて笑えます。
 
「生命に終わりがある」 で始まり
「粋な別れをしようぜ」 で終わるので
 
私は人生の終わりという意味で聴いていました。(笑)
 
雑誌にある心理テストの結果も「生きるしかばね」とでたり
授業中もうわの空で窓の外をボーッと見ていたり。
成績も親が呼び出されるほど下がったりもしました。
 
ある時ベランダでボーッとしていたら担任の先生に
「まさか死のうとか思っていないよね?」と言われたことがありました。
(この先生、私がおかしいことが少しはわかるんだ・・・)と思ったのを覚えています。
 
軟式テニスを将来はプロとしてやっていけたら・・・と思ったこともあったので
未来の可能性と自分らしさの表現手段を失ったと思い込んだ私にとっては人生で一番辛い出来事でした。
(25歳くらいまで引きずっていました)
 

教訓:人生でインパクトの大きい出来事は人生の青写真で自分が計画している。

   そして、実はそれが大きな学びになる。

   
   私はこの「できたのにやらなかった、という選択をして後悔し続けた」という出来事を通じて
   「2度と後悔しないように、やりたいことは絶対やる」と心に決めました。
 

もくじ

  1. 好きなファッションを選んで進学
  2. 天職探求のはじまり

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